カテゴリー: 真教上人の生涯

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ①

一遍上人、兵庫観音堂で臨終をむかえる。(『遊行上人縁起絵』第四巻 遊行寺蔵)

 

一遍上人と真教上人


時宗宗祖一遍上人は、伊予(現在、愛媛県)に勢力を誇った河野氏こうのしの出身です。父である河野通広(出家後、如仏)は、「別府べふ七郎左衛門尉」と称していたことから「別府」(現在、松山市・東温市など諸説があります。)の地に居住していたと考えられます。そのため、一遍上人もその地で誕生したのでしょう。

後に二祖となる真教上人の出自については、豊後(現在、大分県)や京都と記した近世の史料がありますが、『聖絵』『縁起絵』では一切触れられていません。また、一遍上人は浄土宗西山派で修学していますが、真教上人は浄土宗鎮西派ちんぜいはで修学していたということを示す近世の資料があります。しかし、それも本当のところははっきりしません。また、真教上人の思想については、後に詳しく触れます。

一遍上人と真教上人との出会いは、一遍上人が建治三年〔1277『聖絵』ではこのことを前年の建治2年(1276)としています〕九州を遊行中、豊後国(現在・大分県)守護・大友兵庫頭頼泰おおともひょうごのかみよりやすの館で対面し法談の末、一遍上人に入門しました。『聖絵』では「同行相親の契」と記しています。弟子というよりは、むしろ同朋といった意味合いが強いのかもしれません。

また、この両祖師の大友氏の館での出会いは、偶然だったのでしょうか。河野氏と大友氏とは、血縁関係にあったようです。そのため、大友氏が一遍上人を庇護したのは、必然的な流れであったのかもしれません。また、当時の豊後、伊予の守護は宇都宮氏でした。證空上人に弟子となった宇都宮頼綱うつのみやよりつな蓮生れんしょう)以来、宇都宮氏は西山派の人師を庇護していました。その関係も考えられます。そのため、一遍上人と真教上人の出会いもそうした幾重にも重なるご縁から生じたものかもしれません。

さて、一遍上人は、真教上人と遊行の旅をともにしました。お二方を囲んで、しだいに共にする人数が増えていき、ここにいわゆる「時衆」が形成されていきました。そもそも、「時衆」という言葉自体は、臨時に構成された念仏集団の意味合いが強く、法然上人に関する史料などにも見られます。

そのため、時衆では、一日24時間を4時間ごと日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中の六時に分けてお念仏や唐代に浄土教を大成した善導大師の著作である『往生礼讃偈』(『六時礼讃』)に節(博士ふし)を付けてお称えしていました。その際、真教上人は、常に句頭役である調声役ちょうしょうやくをつとめていた、と『聖絵』『縁起絵』では伝えています。

現在、調声役は、お経の句頭として全体の音頭を取り法要を牽引する役割が主ですが、真教上人の場合はそれだけではなく、一遍上人を補佐し、時衆の統率者としての一面も兼ねていたのでしょう。

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ②

真教ら遺弟念仏しつつ臨終するため丹生山に分け入る。(『遊行上人縁起絵』第五巻 第一段 遊行寺蔵)

丹生山たんじょうさんに向かう


一遍上人は、16年間の遊行の旅で250万余の人々にお念仏の教えを弘められました。一遍上人は、その臨終がまぢかであることをさとり「一代の聖教皆つきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」(お釈迦様がお開きになった仏教の教えを突き詰めていくと、私たちが救われる唯一の教えは南無阿弥陀仏である)、または「我が化導は一期ばかりぞ」(『聖絵』第十一)と言い残し、お念仏の教えだけが各地に弘まることを願い、所持していた経典以外のものを焼き捨てています。これは、お念仏の教えに我意を挟まないためだったのでしょう。

こうして一遍上人は、正応2年(1289)8月23日の朝、51年の生涯を兵庫観音堂(現在、兵庫県神戸市兵庫区 時宗真光寺)で閉じられました。そばにいた多くの弟子たちは、それぞれ向かうべき場所へと旅立っていきました。そのように、各地に旅立っていった弟子たちの中には、真教上人もいたのです。

真教上人の動向はというと、「さて遺弟等知識にをくれたてまつりぬるうへは、速に念仏して臨終すべしとて丹生山へわけ入(り)ぬ」(『縁起絵』第五)とあるように、数人の時衆とともに兵庫観音堂から北西の方角にあたる丹生山(現在、神戸市北区)へ向かいました。真教上人は、その地でお念仏を称えながら臨終を迎え一遍上人の後を追うと決心されたのです。そこでは、山を越えながらもなお一遍上人をお慕いし、涙を流して過ごしていたようです。偶然なのか、山中に寺院跡があり、そこで真教上人たちがお念仏を称えていると、様々な人々が現れ、結縁していたようです。

さて、その丹生山の麓には、粟河(あわかわ おうご 淡河とも、現在、神戸市北区の北西部周辺)という地域があり、ある日、そこの粟河領主(淡河時俊を推定)が真教上人のもとを訪れ、念仏札を授けてほしいと懇願してきたのでした。では、なぜ、この領主が真教上人のもとを訪ねてきたのでしょうか、それは、この粟河領主の夫人が兵庫観音堂で一遍上人から最後に念仏札を授けられていたご縁からでした。はじめは、真教上人はその領主の熱意に押され、自らが所持していた一遍上人の念仏札を渡したのでした。

真教上人は、この領主のように一遍上人のお念仏の教えを必要とする人々がまだたくさんいることを知り、一遍上人の後を追うことを思いとどまりました。そして、ひとりでも多くの人々に一遍上人の念仏の教えを伝えるために真教上人は、時衆を再編成し遊行の旅に再び出たのでした。

 

 

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ③

正応5年(1292)、越前国の惣社で平泉寺の衆徒らに襲われる。(『遊行上人縁起絵』第六巻 遊行寺蔵)

北陸を遊行す


正応2年(1289)一遍上人が入滅し、丹生山で時衆を再結成した真教上人は、遊行を再開したのです。『縁起絵』第5には「此の聖はまなこ重瞳ちょうどう浮(び)て繊芥せんかいの隔(て)なく面に柔和にゅうわ備(へ)て慈悲の色深(か)し」(真教上人は重瞳が浮び、わずかな隔てもなく、顔は柔和で慈悲深い様子であった)と真教上人の表情を伝えています。この「重瞳」とは眼の中に瞳が二つあることで、貴人の相を意味しています。その姿を見ただけでも帰依しようという気持ちが起きるような様子を表しているのでしょう。

さて、正応3年(1290)夏頃、真教上人は、越前国府(現在、福井県越前市)周辺を遊行されました。丹生山にいた真教上人が何故、越前国を遊行したのでしょうか。その理由について『縁起絵』には記されていませんが、「機縁に任せて」(『縁起絵』第5)とあることから有力な檀越からの要請があったからでしょう。そのため、真教上人の遊行は一遍上人が全国を廻国したのに対し、越前・越中・越後・加賀・甲斐の国々を中心にしています。

そして、真教上人は、各地で多くの人々の帰依を受けるとともに、その協力を得て道場を建立しています。一遍上人は生涯一か所も道場を建立することがありませんでした。それに対して、真教上人は積極的に建立したことが、時宗教団にとって地方に根をはる礎となったのです。現在、関東甲信越地方には、真教上人による開山或いは改宗した道場(寺院)が多数存在しています。また、その道場には、弟子を派遣し教化を継続し、疑義がある場合は、手紙で答えるなど積極的に布教教化の活動していました。その手紙の内容は、江戸時代に『他阿上人法語』として編纂され、今も真教上人の教えを学ぶことができます。

正応5年(1292)秋頃、真教上人は、多くの人々から帰依を受けながらある人の要請により、越前国の惣社に参詣しました。ところが、真教上人の布教により、時宗教団が隆盛することを嫉み平泉寺の法師たちは、真教上人と時衆に石を投げつけるなど追放しようとしたのです。それに対して時衆は、平泉寺の法師たちを迎え撃とうとしました。しかし、これを察した真教上人は、時衆を戒め、さらに念仏を称え続けていると雨の様に投げられた石が不思議と時衆の誰一人にもあたることがなかったのです。

その後、周囲を気遣い真教上人は越前の惣社を去り、加賀国に向かわれました。

 

 

 

 

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ④

真教上人、信濃国善光寺に詣でる。(『遊行上人縁起絵』第七巻 遊行寺蔵)

善行寺を拝す


真教上人による北陸地方での布教は多くの人々からの帰依を受け、請われて再びその地を訪れることもあったようです。このことは、現在、北陸地方に真教上人開山の寺院が多いことからもうかがえます。また、同じところを訪れ布教を重ねるというところは、宗祖一遍上人と大きく違う様相を異にしていると言えます。そのため、その地方でもとから布教していた寺社からの嫉妬もあったのでしょう。そのひとつが平泉寺の法師から受けた攻撃だったのです。

越前国の惣社を後にした真教上人は、一度、加賀国に逃れ、永仁5年(1297)頃には、上野国(現在、群馬県)、下野国小山(現在、栃木県小山市)周辺を遊行しています。この経路については、『縁起絵』は勿論ですが、一遍上人以来、同行した時衆の僧尼が往生した後、その名が記された『時衆過去帳』(『往古おうこ過去帳』)が現存しています。この『時衆過去帳』の裏書には一部それぞれの地名が記されています。その年号や裏書の地名からある程度、遊行経路を推定することができます。

さて、永仁6年(1298)、真教上人は、武州村岡(現在、埼玉県熊谷市付近)で大病をし、臨終を覚悟したうえで念仏の用心を記した『他阿弥陀仏同行用心大綱たあみだぶつごうぎょうようじんだいこう』を時衆に示します。この時のご病気が原因となり、真教上人の特徴的なお顔の表情になったとされています。その後、越前国から越後国にかけて人々を教化していた真教上人は、関山(現在、新潟県上越市)より熊坂(現在、長野県上水内郡)を越えて信濃国(現在、長野県)へと入ります。信濃国に入った真教上人は、信州善光寺に参詣しました。この信州善光寺は、宗祖一遍上人が再出家後すぐに参詣し、第一の安心と「二河白道にがびゃくどう」を感得した場所でもあります。そして、この善光寺のご本尊は、インド・中国そして日本へとお渡りになった仏であり、一つの光背に弥陀・観音・勢至が立ち並ぶ、いわゆる「一光三尊いっこうさんぞん」の形式です。この形式は、善光寺式とも呼ばれています。

現在、時宗では、善光寺式をご本尊として奉っている寺院も少なくないです。このことから、当時の時衆は善光寺の信仰を広めた善光寺聖、あるいは高野聖との接点を見いだすことができるのではないでしょうか。

真教上人が善光寺に参詣されたとき、時あたかも舎利会が行われており、ご本尊がご開帳されていたそうです。寺より特別に許されて真教上人は、ご本尊のすぐ前で日中の法要をお勤めされました。未だかつてご本尊の前でお勤めをするということがなかったため、参詣者は驚いていたそうです。この法要は7日間続いたそうです。

    

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑤

正安3年(1301)、敦賀氣比神宮のために、真教上人自ら浜の砂を持ち参道をつくる。道俗一切に至るまで参加する。(『遊行上人縁起絵』第八巻 遊行寺蔵)

遊行のお砂持ち


信州善光寺を参詣し甲斐国(現在、山梨県)へと布教された真教上人は、ここで日蓮宗の僧侶と宗論をしたのでした。このときも真教上人はお念仏の教えを説かれ、騒動になることもなく鎮まったのでした。その後も真教上人は、甲斐国中を遊行し、たくさんの帰依を受けその地に道場を建立しながら、越後国(現在、新潟県)へとお移りになられました。  

その道中、ある武士が時衆への入門を希望しますが、真教上人はその武士が高齢でもあるため断られました。その際、真教上人はその武士とお互いに往生した後、阿弥陀仏の極楽世界で再会することを約束されています。このようなことは、真教上人のみ教えが各地に、しかも各階層に深く根ざしていることをあらわしています。

さて、越後国を遊行した真教上人は、正安3年(1301)頃、越前国(現在、福井県)に入られました。真教上人は、古来より北陸の総鎮守として信仰されていた角鹿笥飯大神宮(現在、福井県敦賀市「氣比けひ神宮」)に参詣されました。

この大神宮は、海の航海安全と水産漁業の隆昌そして、陸では産業発展と衣食住の平穏などの霊験が著しく、参詣者で賑わっていました。しかし、その西門前の参道は、沼地(東の入り江)にあるため、長年参詣者が参詣に苦労していました。その話を伝え聞いた真教上人は、大神宮から4、500メートル離れた浜の砂を「もっこ」を担いで自ら運び、その西門前の参道を改修し始めました。その後、真教上人に結縁した人々が周辺諸国から集まり、その様子は市場の賑わいの様だったと『縁起絵』は記しています。その工事は、大勢の人々が加わり七日間に及んだそうです。このようにして真教上人による適切なご勧進かんじんにより、大神宮の参道は立派に整備されました。

このことから真教上人は、越前国での布教をお砂持ちのことでもわかるように、成功、一路、伊勢国(現在、三重県)を目指したのでした。

この参道の工事は、「遊行のお砂持ち」と呼ばれ、現代においても遊行上人が法灯を相続した際に行われています。遊行上人が法灯を相続する際に行われる行事には、このお砂持ち神事と熊野奉告、宗祖の御廟参拝があります。このことからも時宗教団の成立には、二祖である真教上人の存在の大きさが感じられます。

最近では、遊行74代他阿真円上人が法灯を相続された際、平成27年(2005)5月15日にこの神事が行われました。また、元禄2年(1689)8月14日には、松尾芭蕉が旅で敦賀を訪れ、宿泊した出雲屋の亭主から「遊行のお砂持ち」の故事を聞き、「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠んでいます。

 

 

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑥

正安3年(1301)10月、伊勢大神宮へ参詣する。外官にて、真教上人の手より金色の光を放つ。続いて内官に参詣する。(『遊行上人縁起絵』第九巻 遊行寺蔵)

伊勢神宮を拝す


正安3年(1301)十月頃、真教上人は時衆とともに北陸の地から伊勢国(現在、三重県)へとお入りになられました。この伊勢国には、天照大神あまてらすおおかみを祀る「伊勢神宮」があり、永らく神々しき景色を保ち信仰の対象となっていました。そこへ真教上人は参拝なされたのです。まず、参拝にあたり、その年の11月には、櫛田(現在、三重県松坂市櫛田)の「赤御堂あかみどう」に逗留されました。その後、真教上人は伊勢神宮の外宮へと向かわれました。その伊勢神宮の神々しい神域には、もろもろの穢れを持ち込むことがはばかられるため、ひとたびは参拝を躊躇されましたが、その一行は制止されるまで進むことを決意したのです。しかし、不思議と外宮では制止されることもなく、鳥居をくぐることができました。

この神域での念仏勧進は前例がなく、神職にある人々は誰一人として賦算を受けることがありませんでした。ちょうどその頃、政所大夫雅見まんどころだゆうまさみという人が参拝し帰ろうとしていた時、真教上人が念仏をすすめているところに遭遇し、その手から金色の光が上下約48センチ、左右54センチほどの大きさに見え、さらに五色の飾りが珠のように連なって動いているのが見えたのです。その不思議な光景を目の当りにした政所大夫雅見は、真教上人の前に臥して合掌し、十念を受けたのでした。このことが契機となり、真教上人から念仏を受ける人々が次々と現れました。

また、禰宜ねぎ定行は夢の中で阿弥陀如来が多くの聖衆を引き連れ、その後には黒衣の僧侶が数人混じっており、外宮の鳥居を通るのを見て驚き、「誰が参拝されましたか」と問うと、それは真教上人であったので、帰依されました。その日、上人は、法楽舎ほうらくしゃに泊まられました。

さて、翌日、真教上人は内宮に参拝されました。二の鳥居で十念を称え下向しようとしたのですが、内宮一の禰宜から結縁のために日中礼讃の法要を所望されました。そのように内宮の神域で法要を行うことは例がなく多くの参詣者は、みな涙を流して信仰したのでした。

その後、真教上人は越前国敦賀(現在、福井県敦賀市)に、そして、近江国(現、滋賀県)へと遊行され、小野大明神が結縁するなど神仏の加護も加わりました。旅を続けるにつれてますます念仏勧進に励まれ、人々の帰依も盛んになりました。

さて、その後の時宗教団と伊勢神宮との関わりは、時宗十二派の霊山派りょうぜんは・国阿派の祖とされる国阿上人の念仏勧進と結びついています。詳しくは『国阿上人伝』(『定本時宗宗典』下巻所収)をご覧下さい。

 

 

 

 

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑦

正安4年(1302)8月15日、兵庫に着く。一遍上人の御影堂に参詣する。17日より7日の別時念仏を観音堂にて行う。(『遊行上人縁起絵』第十巻 遊行寺蔵)

兵庫観音堂で宗祖の御影みえいを拝す


正安4年(1302)8月15日、真教上人は、北陸や近江を遊行し摂津国兵庫島(現在、兵庫県神戸市兵庫区)へとお着きになられました。

その頃の兵庫島は、砂場と村が重なり合うようにあり、まるで街を並べたように連なっていました。その河と海は、水を満たし波が海から河へと逆流しており、あたかも銭塘江(中国浙江省)の三千の宿を目の前に見るかのようでした。この銭塘江の逸話は、范蠡が五湖の岸に船をつけて宿をとったことであり、真教上人は心の中でそのことを思い出されていました。そして、一行は兵庫観音堂(現在、兵庫県神戸市兵庫区 時宗真光寺)にある一遍上人の御影堂みえいどうへと参拝されました。

真教上人は、御影堂に安置された一遍上人像を拝しながら、懐古の余り、涙でお十念も途切れ途切れになり、同席していた時衆の僧尼を初め、結縁した人々も涙を流しました。

真教上人は、これまで縁に任せて念仏勧進をしてきましたが、奇しくもその年は、一遍上人13回忌の祥当でした。あえてこの年を目指して遊行をしてきたわけでは無く、自然に巡りあったことに、不思議な導きを感じたのでした。そして、その日より観音堂において七日間の別時念仏会を行い、一遍上人の13回忌の法要を勤められました。

このとき、真教上人は、周囲に推されて調声役を久方振りに勤められたのでした。元々真教上人は、一遍上人の在世中から調声役を勤めていましたが、永仁6年(1298)に武蔵国村岡(現在、埼玉県熊谷市付近)で大病を患ったため、それ以後は時衆のなかで勤められていました。

また、法要を勤めながら一遍上人の在世中を懐古した真教上人が、胸に浮かぶ思い出の数々に涙を流されていると、周囲の人々も涙を流し、その涙で袖を濡らすほどでした。

この兵庫観音堂は実に一遍上人終焉の地であり、「他阿弥陀仏、南無阿弥陀仏はうれしきか」と一遍上人が臨終まぢかで真教上人に問われた場所でもあります。一遍上人入滅後に、一遍上人の御像を安置し、できたのがこの御影堂でした。この御影堂を中心に真教上人が道場として建立したのが現在の西月山真光寺と言われています。

*真教上人が大病を患ったことを『縁起絵』第7では、永仁6年としていますが、『縁起絵』第10では正応6年としています。今回は初出の永仁元年で統一しました。

 

 

 

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑧

嘉元元年(1303)歳末、相模国当麻で、歳末の別時念仏会を修す。群衆、雨のごとく参詣する。『遊行上人縁起絵』第九巻 遊行寺蔵)

当麻道場たいまどうじょう別時念仏をべつじねんぶつ修す


嘉元元年(1303)12月、真教上人は、関東拠点として一遍上人ゆかりの地とされる当麻道場(現在、神奈川県相模原市南区当麻 無量光寺)で歳末別時念仏会を勤めました。この別時念仏会は、一遍上人の代から重要な法要として時衆で勤められ、特に歳末に行われる法要を重要視していました。それは、期間を限定し念仏に集中し年末に罪業ざいごう懺悔さんげ、その上で新年を迎えようとするものです。

真教上人が当麻道場でつとめた別時念仏会の参詣者については、「いつもの事なれば、貴賎雨のごとく参詣し、同俗雲のごとく群集す」と『縁起絵』第十に記しています。いかに真教上人の教化が行き渡っていたかを物語っています。

そして、真教上人は、嘉元2年(1304)1月、遊行の法灯を量阿智得上人に譲り、自身は当麻道場に独住されました。このとき、「全国を遊行し念仏の教えを弘める時衆」と「根本となる道場に独住する時衆」という二大体制が整ったのです。また、真教上人は、三代目となる量阿智得上人に対し、

 

  然れども知識のくらゐになりては、衆生の呼ところの名なれば、

  自今已後は量阿弥陀仏を捨て他阿弥陀仏と号せらるべし。

  この名は一代のみならず、代々みな遊行かたにうけつぐべきなり。

 

と『七条文書しちじょうもんじょ』にはあります。これは、自らの後継として指名した量阿智得上人に他阿弥陀仏を継承すること、さらには代々の遊行上人にこの他阿弥陀仏を継承することまで定められました。このことから真教上人以後、代々の遊行上人は他阿弥陀仏を継承することとなり、現在、七十四代まで継続されています。

文保3年(1319)1月27日、一遍上人の教えを深く弘めその地に根ざさせるために道場を建立し、教化活動を行い時宗教団の礎を築いた真教上人は、当麻道場でその83年のご生涯を静かに閉じたのでした。

さて、現在、毎年2月27日に総本山清浄光寺では、朝時の法要で二祖忌として法要を行い、老僧や修行僧が遊行上人の名代として代参することが慣例になっています。しかしながら昨年、2月27日には、遊行74代他阿真円上人おんみずからを導師として真教上人七百回忌法要が行われました。さらに、本年3月27日には、二祖上人七百年御遠忌記念の一環として、無量光寺で有縁の地法要が行われます。

また、真教上人が入寂される前年、文保2年(1318)にはその姿を彫られており、頭部の内側に年号と南無阿弥陀仏の名号を記しています。現在、神奈川県小田原市国府津蓮台寺に所蔵されている坐像がそれです。指先や手の甲の皺など生前の姿を忠実に表現しているとともに、病気のためか右頬がやや下がるものの、その柔和な表情から真教上人の人柄が偲ばれます。

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑨

阿弥陀仏と称するに 六字のうちに往生す


真教上人は、一遍上人同様にまとまった著作は現存していません。ただし、その教えは『他阿上人法語』全8巻から知ることができます。この『他阿上人法語』は、真教上人の消息法語や和歌(『大鏡集』と呼ばれていた)を集録編纂したものです。遊行53代他阿尊如上人(1711~1779)の時に岩本成願寺(現在、福井県越前市岩本町)住職其阿玄道(総本山衆領軒在職中に入寂)が印板施財主となり、敦賀西方寺(現在、福井県敦賀市)住職長順が諸本を校合した上で、安永7年(1778)1月に刊行されたものです。

 この『他阿上人法語』に所収されている消息法語とは、地方に建立した道場の坊主(現在の住職)や信者からの質問に答えたものです。そのなかからは、真教上人がどの様に教えを説いていたのかがよくわかります。

さて、一遍上人も真教上人をはじめとして歴代の遊行上人は、分かり易くお念仏の教えを説くために『和讃』を作られています。そもそも『和讃』とは、和語讃歎の略で平易な言葉で仏やその教えを讃える仏教歌謡の主流をなすものです。仏・菩薩の功徳・教法・祖師高僧などの業績やその教えを詩的に表現しています。基本は、七五調で四句を一章とする形式が取られています。また、真教上人には『往生浄土和讃』があり、今では『往生讃』の名称で知られています。

この『往生讃』では、一遍上人の『別願和讃』同様に冒頭部分で

  

  吾等がこのみのはかなさを おもいとくこそうかりけれ

  かれゆくくさにおくつゆの あだなるよりもたのみなし

  いのちをものにたぐふれば あきのすえのによはるなる

  むしのうらあみのこえまで よそのうれいとおもはれず

 

とあり、この世の無常を説いています。そして、輪廻転生を繰り返す凡夫である私たちの悲しみを述べ、救われる教えについて説いています。真教上人は一遍上人の説くお念仏の教えを継承していますが、一遍上人が南無阿弥陀仏の名号を強調しているのに対して、真教上人は阿弥陀仏の本願や信心を強調した上での称名念仏を説いています。その部分には、

 

  他力に帰せざる故にこそ 往生の期もなかりけれ 

  有心は平生なりければ 称念のうちに臨終あり

  しかれば臨終平生は ふたつなしとぞ知られける 

  南無ととなふる一聲は 歸命の一念なりければ 

  阿弥陀仏と称するに 六字のうちに往生す

 

(他力に帰依しないでいるため 往生する時も無いのです。心の働きは平生のものであるから 称念のうちに臨終があり、臨終と平生は一つであると知っているのです。「南無」と称える一声は 帰命の一念であるから「阿弥陀仏」と称えると 六字のうちに往生するのです)

とあります。ここから真教上人のお念仏に対する考えがうかがえます。一遍上人は「南無阿弥陀仏」に臨終と平生との別がなく、ただ今の称名念仏を臨終と考えています。その教えを真教上人は継承しています。つまり、一遍上人の教えを真教上人が受け継ぎ、その教えが綿々と現在まで受け継がれていることがわかります。

 

「絹本著色真教上人像」清浄光寺蔵

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑩

歌僧としての真教上人


真教上人は、時宗教団の確立者という一面のほかに、和歌の道に通じた歌僧としての一面もありました。真教上人は、一代で秀歌一千四百五十首に及んでいます。その歌の内容は、釈教・述懐を中心とし、花鳥風月に至るまで多彩な題材が詠まれています。真教上人の歌集は、『大鏡集』あるいは『他阿上人歌集』と呼ばれていた様ですが、その後、編集され『他阿上人法語』第8巻に全体の2割にすぎぬ、わずか二七一首が収録されています。

 

  あすよりは たれにとはまし のりのみち 

             ゆふしてかけて やらじとぞおもふ

〔明日よりは、仏法の道を誰に問えばよいのだろうか。(神殿のしめ縄に)木綿四手を下げて神殿に決意を託し、その決意を決して破られないぞと思う。〕     

『縁起絵』第5

 

  をぐるまの わづかに人と めぐりきて

            こゝろをやれば 三(つ)のふるみち

(牛車が僅かな数の供回りを連れてあちこちと行くように私も時衆を連れてあちこち遊行してきました。牛車の車輪が回るように心もまた煩悩によって三界を流転してきましたが、そんな心を離れてみると流浪してきた三界がまるで古い道に見えるようでした。)

 

  いくせにも ながれてきゆる 山かはの

            あはれはかなき おいのなみかな

(山河の流れは幾瀬にも来ては消えますが、それはまるで人生の色々な場面が思い浮かんでは消える様に似ていて、ああ儚い老いの姿の様です。)

『縁起絵』第7

 

  めぐりあふ おなじ日数は 秋ながら

          又みぬ月の くもがくれ哉

  (故一遍上人とめぐりあって共にすごした日数と同じ日数がすでに経過したが、お別れした秋の日のままのようで、雲隠れした月を再び見ることができないように、故一遍上人にもお会いできないものだなぁ。)

『縁起絵』第十

 

これらはみな、真教上人の詠まれた和歌の一部です。

また、真教上人は、当時一流の歌人である京極為兼、冷泉為相、冷泉為守らと和歌を通じて親交もあったようです。延慶3年(1310)、京極為兼が関東下向の折、真教上人と対面し、合点を付けた和歌が三十三首あったと記されています。このことは、真教上人の和歌のすばらしさを物語っています。正和元年(1312)勅撰の『玉葉和歌集』には、他阿真教の和歌が一首「読人しらず」として所収されています。また、藤原長清の撰による『夫木和歌抄』には、一遍上人、真教上人の和歌三十首ほどが所収されています。 

このことから真教上人は、和歌を通じて様々な人々と親交を育み、そして、その先には信仰上の強い関係性がうかがえます。