法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ①

一遍上人、兵庫観音堂で臨終をむかえる。(『遊行上人縁起絵』第四巻 遊行寺蔵)

 

一遍上人と真教上人


時宗宗祖一遍上人は、伊予(現在、愛媛県)に勢力を誇った河野氏こうのしの出身です。父である河野通広(出家後、如仏)は、「別府べふ七郎左衛門尉」と称していたことから「別府」(現在、松山市・東温市など諸説があります。)の地に居住していたと考えられます。そのため、一遍上人もその地で誕生したのでしょう。

後に二祖となる真教上人の出自については、豊後(現在、大分県)や京都と記した近世の史料がありますが、『聖絵』『縁起絵』では一切触れられていません。また、一遍上人は浄土宗西山派で修学していますが、真教上人は浄土宗鎮西派ちんぜいはで修学していたということを示す近世の資料があります。しかし、それも本当のところははっきりしません。また、真教上人の思想については、後に詳しく触れます。

一遍上人と真教上人との出会いは、一遍上人が建治三年〔1277『聖絵』ではこのことを前年の建治2年(1276)としています〕九州を遊行中、豊後国(現在・大分県)守護・大友兵庫頭頼泰おおともひょうごのかみよりやすの館で対面し法談の末、一遍上人に入門しました。『聖絵』では「同行相親の契」と記しています。弟子というよりは、むしろ同朋といった意味合いが強いのかもしれません。

また、この両祖師の大友氏の館での出会いは、偶然だったのでしょうか。河野氏と大友氏とは、血縁関係にあったようです。そのため、大友氏が一遍上人を庇護したのは、必然的な流れであったのかもしれません。また、当時の豊後、伊予の守護は宇都宮氏でした。證空上人に弟子となった宇都宮頼綱うつのみやよりつな蓮生れんしょう)以来、宇都宮氏は西山派の人師を庇護していました。その関係も考えられます。そのため、一遍上人と真教上人の出会いもそうした幾重にも重なるご縁から生じたものかもしれません。

さて、一遍上人は、真教上人と遊行の旅をともにしました。お二方を囲んで、しだいに共にする人数が増えていき、ここにいわゆる「時衆」が形成されていきました。そもそも、「時衆」という言葉自体は、臨時に構成された念仏集団の意味合いが強く、法然上人に関する史料などにも見られます。

そのため、時衆では、一日24時間を4時間ごと日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中の六時に分けてお念仏や唐代に浄土教を大成した善導大師の著作である『往生礼讃偈』(『六時礼讃』)に節(博士ふし)を付けてお称えしていました。その際、真教上人は、常に句頭役である調声役ちょうしょうやくをつとめていた、と『聖絵』『縁起絵』では伝えています。

現在、調声役は、お経の句頭として全体の音頭を取り法要を牽引する役割が主ですが、真教上人の場合はそれだけではなく、一遍上人を補佐し、時衆の統率者としての一面も兼ねていたのでしょう。