法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ③

正応5年(1292)、越前国の惣社で平泉寺の衆徒らに襲われる。(『遊行上人縁起絵』第六巻 遊行寺蔵)

北陸を遊行す


正応2年(1289)一遍上人が入滅し、丹生山で時衆を再結成した真教上人は、遊行を再開したのです。『縁起絵』第5には「此の聖はまなこ重瞳ちょうどう浮(び)て繊芥せんかいの隔(て)なく面に柔和にゅうわ備(へ)て慈悲の色深(か)し」(真教上人は重瞳が浮び、わずかな隔てもなく、顔は柔和で慈悲深い様子であった)と真教上人の表情を伝えています。この「重瞳」とは眼の中に瞳が二つあることで、貴人の相を意味しています。その姿を見ただけでも帰依しようという気持ちが起きるような様子を表しているのでしょう。

さて、正応3年(1290)夏頃、真教上人は、越前国府(現在、福井県越前市)周辺を遊行されました。丹生山にいた真教上人が何故、越前国を遊行したのでしょうか。その理由について『縁起絵』には記されていませんが、「機縁に任せて」(『縁起絵』第5)とあることから有力な檀越からの要請があったからでしょう。そのため、真教上人の遊行は一遍上人が全国を廻国したのに対し、越前・越中・越後・加賀・甲斐の国々を中心にしています。

そして、真教上人は、各地で多くの人々の帰依を受けるとともに、その協力を得て道場を建立しています。一遍上人は生涯一か所も道場を建立することがありませんでした。それに対して、真教上人は積極的に建立したことが、時宗教団にとって地方に根をはる礎となったのです。現在、関東甲信越地方には、真教上人による開山或いは改宗した道場(寺院)が多数存在しています。また、その道場には、弟子を派遣し教化を継続し、疑義がある場合は、手紙で答えるなど積極的に布教教化の活動していました。その手紙の内容は、江戸時代に『他阿上人法語』として編纂され、今も真教上人の教えを学ぶことができます。

正応5年(1292)秋頃、真教上人は、多くの人々から帰依を受けながらある人の要請により、越前国の惣社に参詣しました。ところが、真教上人の布教により、時宗教団が隆盛することを嫉み平泉寺の法師たちは、真教上人と時衆に石を投げつけるなど追放しようとしたのです。それに対して時衆は、平泉寺の法師たちを迎え撃とうとしました。しかし、これを察した真教上人は、時衆を戒め、さらに念仏を称え続けていると雨の様に投げられた石が不思議と時衆の誰一人にもあたることがなかったのです。

その後、周囲を気遣い真教上人は越前の惣社を去り、加賀国に向かわれました。