法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑦

正安4年(1302)8月15日、兵庫に着く。一遍上人の御影堂に参詣する。17日より7日の別時念仏を観音堂にて行う。(『遊行上人縁起絵』第十巻 遊行寺蔵)

兵庫観音堂で宗祖の御影みえいを拝す


正安4年(1302)8月15日、真教上人は、北陸や近江を遊行し摂津国兵庫島(現在、兵庫県神戸市兵庫区)へとお着きになられました。

その頃の兵庫島は、砂場と村が重なり合うようにあり、まるで街を並べたように連なっていました。その河と海は、水を満たし波が海から河へと逆流しており、あたかも銭塘江(中国浙江省)の三千の宿を目の前に見るかのようでした。この銭塘江の逸話は、范蠡が五湖の岸に船をつけて宿をとったことであり、真教上人は心の中でそのことを思い出されていました。そして、一行は兵庫観音堂(現在、兵庫県神戸市兵庫区 時宗真光寺)にある一遍上人の御影堂みえいどうへと参拝されました。

真教上人は、御影堂に安置された一遍上人像を拝しながら、懐古の余り、涙でお十念も途切れ途切れになり、同席していた時衆の僧尼を初め、結縁した人々も涙を流しました。

真教上人は、これまで縁に任せて念仏勧進をしてきましたが、奇しくもその年は、一遍上人13回忌の祥当でした。あえてこの年を目指して遊行をしてきたわけでは無く、自然に巡りあったことに、不思議な導きを感じたのでした。そして、その日より観音堂において七日間の別時念仏会を行い、一遍上人の13回忌の法要を勤められました。

このとき、真教上人は、周囲に推されて調声役を久方振りに勤められたのでした。元々真教上人は、一遍上人の在世中から調声役を勤めていましたが、永仁6年(1298)に武蔵国村岡(現在、埼玉県熊谷市付近)で大病を患ったため、それ以後は時衆のなかで勤められていました。

また、法要を勤めながら一遍上人の在世中を懐古した真教上人が、胸に浮かぶ思い出の数々に涙を流されていると、周囲の人々も涙を流し、その涙で袖を濡らすほどでした。

この兵庫観音堂は実に一遍上人終焉の地であり、「他阿弥陀仏、南無阿弥陀仏はうれしきか」と一遍上人が臨終まぢかで真教上人に問われた場所でもあります。一遍上人入滅後に、一遍上人の御像を安置し、できたのがこの御影堂でした。この御影堂を中心に真教上人が道場として建立したのが現在の西月山真光寺と言われています。

*真教上人が大病を患ったことを『縁起絵』第7では、永仁6年としていますが、『縁起絵』第10では正応6年としています。今回は初出の永仁元年で統一しました。