時宗宗祖一遍上人 ~誕生~

一遍上人は、延応元年(1239)に伊予国(現、愛媛県)に勢力を誇った河野家こうのけ(別府家)に誕生します。河野家は、瀬戸内海一体を支配していた水軍でしたが、源平の合戦では源氏に御方し功績を挙げましたが、承久の乱(1221)では上皇側に御方し敗北したため、一族は離散没落していました。そのようななか一遍上人は、10歳で母と死別し、父である河野通広(法名を如仏)の勧めもあり出家しました。出家した一遍上人は、浄土宗西山せいざん義祖證空上人(1177-1247)門下で、太宰府にいた聖達しょうだつ上人(生没不詳)に入門しました。すぐに肥前国にいた同じく證空上人門下の華台けだい上人(生没不詳)のもとで浄土教の基礎を1年ほど学び、再び聖達上人のもとに戻り弘長3年(1263)まで学びました。

時宗宗祖一遍上人 ~再出家~

弘長3年春、一遍上人は、父河野通広の死によって伊予に帰国し、半僧半俗の生活を過ごしていたようですが、輪鼓を回して遊んでいたとき、輪廻から解脱する方法を気づき再び修行されました。

文永10年(1273)に再出家した一遍上人は、信州善光寺に参詣し唐代善導大師の『観経疏かんぎょうしょ散善義さんぜんぎに説く譬喩ひゆの「二河白道にがびゃくどう」の図を感得されました。このころ得た境地をまとめて作られたのが「十一不二頌じゅういちふにじゅ」です。その後、一遍上人は、伊予に戻り窪寺くぼでらで念仏三昧の日々を3年間過ごし、空海ゆかりの地でもある菅生の岩屋に参籠しました。この菅生の岩屋参籠後、文永11年(1274)2月8日一遍上人は、所有していたすべての財産を放棄し一族とも別れ、超一、超二、念仏房(この三人と一遍上人は俗縁があったが詳しくは不明です)と途中まで同行した聖戒とともに遊行の旅へ出られました。

時宗宗祖一遍上人 ~遊行の旅へ~

人々と念仏とを結び付けるために一遍上人は、念仏札を配りました。このことを賦算といいます。この念仏札には、「南無阿弥陀佛なみあみだぶ 決定往生けつじょうおうじょう  六十万人」と書かれています。これは、念仏勧進のための方法であり、六十万人とあるのは一遍上人が目指した数でもあり、一切衆生を意味しています。一遍上人は、文永11年(1274)に大阪の四天王寺で初めて賦算を行いました。その後、一遍上人は、四天王寺から高野山を経て熊野へと向かわれました。

時宗宗祖一遍上人 ~熊野成道~

一遍上人は、この熊野の地で一大転機を迎えたのです。山道で一人の僧と出会った一遍上人は、念仏札をわたそうとするが信心が起きないので受け取れないと拒まれ、押し問答の末に無理矢理わたしてしまいます。この出来事で苦悩した一遍上人は、熊野権現くまのごんげんにすがるため、熊野証誠殿に参籠したのです。すると山伏姿の熊野権現が現われ、念仏勧進の真意を一遍上人に示されました。そのとき、熊野権現は一遍上人に「融通念仏ゆうずうねんぶつを勧めている聖である一遍上人よ、なぜ、間違った念仏を勧めているのか、あなたの勧めによりはじめて人びとが往生できるのではない。すべての人びとの往生は、十劫というはるか昔に法蔵菩薩が覚りを得て阿弥陀仏に成ったときから南無阿弥陀仏と称えることにより往生できるのである」と告げられたといいます。

このことを熊野権現の神託といい、このときを立教開宗としています。そして、この境地を表したのが「六十万人頌ろくじゅうまんにんじゅ」です。一遍上人は、同行していた三人を熊野の地で放ち捨て迷うことなく念仏札を配り16年間に及ぶ念仏勧進の旅を続けたのでした。

 

時宗宗祖一遍上人 ~時衆の形成~

弘安元年(1278)九州で一遍上人は、後に二祖となる他阿真教(1237-1319)と出会い、同行を許してからその人数も次第に増え時衆が形成されていきました。ちなみに、中世では時衆、近世以降は時宗と表記され区別されています。

一遍上人は、信州佐久(現、長野県佐久市)で踊り念仏を始めました。当初、これは、意図的ではなく自然発生的に行われたものであろうがしだいに形式化されていったと考えられます。遊行の旅は、南は鹿児島の大隅八幡宮(現、鹿児島神宮)から北は東北へと広範囲に及びました。特に江刺えさし(現、岩手県北上市)では、祖父河野通信の墓参を行っています。弘安5年(1282)には、鎌倉へと入ろうとしましたが、目前にして小袋坂(現、鎌倉市小袋谷付近)で行く手を阻まれたため、一遍上人は、片瀬の浜地蔵堂(現、神奈川県藤沢市)へと移ることになりました。ここでは、突如、『聖絵』では踊屋と呼ばれる舞台のような建物が登場し、踊り念仏がその上で行われた。この踊り念仏は、数日行われたくさんの人びとで賑わったといいます。

弘安7年(1284)一遍上人は、一路京都を目指した。関寺を経て四条京極の釈迦堂へ入った一遍上人のもとには、念仏札を受けようと多くの人びとが集まり、その賑わいは『聖絵』に記されています。そして、そこには、あまりにも多く人が集まったため一遍上人は肩車をされ念仏札を配るほどでした。その後、「我が先達」と慕った空也(903-972)ゆかりの六波羅蜜寺を訪ね、空也の遺跡市屋で踊り念仏を行っています。

正応2年(1289)7月、一遍上人は、「いなみ野」で終焉を迎えようとしましたが、兵庫から迎えが来たため兵庫観音堂(現、兵庫県神戸市兵庫区真光寺)に移動しました。臨終に先立ち8月10日の朝に一遍上人は、『阿弥陀経』を読みながら所持していた書物を焼き捨て、「釈尊一代の教えを突きつめると南無阿弥陀仏の教えになる」と述べています。

ついに8月23日の朝、一遍上人は漂白の旅に明け暮れた51年の生涯を閉じました。16年の遊行の間、念仏札を配った人数を『聖絵』では、25億(250万)1千7百24人と記しています。

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ①

一遍上人、兵庫観音堂で臨終をむかえる。(『遊行上人縁起絵』第四巻 遊行寺蔵)

 

一遍上人と真教上人


時宗宗祖一遍上人は、伊予(現在、愛媛県)に勢力を誇った河野氏こうのしの出身です。父である河野通広(出家後、如仏)は、「別府べふ七郎左衛門尉」と称していたことから「別府」(現在、松山市・東温市など諸説があります。)の地に居住していたと考えられます。そのため、一遍上人もその地で誕生したのでしょう。

後に二祖となる真教上人の出自については、豊後(現在、大分県)や京都と記した近世の史料がありますが、『聖絵』『縁起絵』では一切触れられていません。また、一遍上人は浄土宗西山派で修学していますが、真教上人は浄土宗鎮西派ちんぜいはで修学していたということを示す近世の資料があります。しかし、それも本当のところははっきりしません。また、真教上人の思想については、後に詳しく触れます。

一遍上人と真教上人との出会いは、一遍上人が建治三年〔1277『聖絵』ではこのことを前年の建治2年(1276)としています〕九州を遊行中、豊後国(現在・大分県)守護・大友兵庫頭頼泰おおともひょうごのかみよりやすの館で対面し法談の末、一遍上人に入門しました。『聖絵』では「同行相親の契」と記しています。弟子というよりは、むしろ同朋といった意味合いが強いのかもしれません。

また、この両祖師の大友氏の館での出会いは、偶然だったのでしょうか。河野氏と大友氏とは、血縁関係にあったようです。そのため、大友氏が一遍上人を庇護したのは、必然的な流れであったのかもしれません。また、当時の豊後、伊予の守護は宇都宮氏でした。證空上人に弟子となった宇都宮頼綱うつのみやよりつな蓮生れんしょう)以来、宇都宮氏は西山派の人師を庇護していました。その関係も考えられます。そのため、一遍上人と真教上人の出会いもそうした幾重にも重なるご縁から生じたものかもしれません。

さて、一遍上人は、真教上人と遊行の旅をともにしました。お二方を囲んで、しだいに共にする人数が増えていき、ここにいわゆる「時衆」が形成されていきました。そもそも、「時衆」という言葉自体は、臨時に構成された念仏集団の意味合いが強く、法然上人に関する史料などにも見られます。

そのため、時衆では、一日24時間を4時間ごと日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中の六時に分けてお念仏や唐代に浄土教を大成した善導大師の著作である『往生礼讃偈』(『六時礼讃』)に節(博士ふし)を付けてお称えしていました。その際、真教上人は、常に句頭役である調声役ちょうしょうやくをつとめていた、と『聖絵』『縁起絵』では伝えています。

現在、調声役は、お経の句頭として全体の音頭を取り法要を牽引する役割が主ですが、真教上人の場合はそれだけではなく、一遍上人を補佐し、時衆の統率者としての一面も兼ねていたのでしょう。

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ②

真教ら遺弟念仏しつつ臨終するため丹生山に分け入る。(『遊行上人縁起絵』第五巻 第一段 遊行寺蔵)

丹生山たんじょうさんに向かう


一遍上人は、16年間の遊行の旅で250万余の人々にお念仏の教えを弘められました。一遍上人は、その臨終がまぢかであることをさとり「一代の聖教皆つきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」(お釈迦様がお開きになった仏教の教えを突き詰めていくと、私たちが救われる唯一の教えは南無阿弥陀仏である)、または「我が化導は一期ばかりぞ」(『聖絵』第十一)と言い残し、お念仏の教えだけが各地に弘まることを願い、所持していた経典以外のものを焼き捨てています。これは、お念仏の教えに我意を挟まないためだったのでしょう。

こうして一遍上人は、正応2年(1289)8月23日の朝、51年の生涯を兵庫観音堂(現在、兵庫県神戸市兵庫区 時宗真光寺)で閉じられました。そばにいた多くの弟子たちは、それぞれ向かうべき場所へと旅立っていきました。そのように、各地に旅立っていった弟子たちの中には、真教上人もいたのです。

真教上人の動向はというと、「さて遺弟等知識にをくれたてまつりぬるうへは、速に念仏して臨終すべしとて丹生山へわけ入(り)ぬ」(『縁起絵』第五)とあるように、数人の時衆とともに兵庫観音堂から北西の方角にあたる丹生山(現在、神戸市北区)へ向かいました。真教上人は、その地でお念仏を称えながら臨終を迎え一遍上人の後を追うと決心されたのです。そこでは、山を越えながらもなお一遍上人をお慕いし、涙を流して過ごしていたようです。偶然なのか、山中に寺院跡があり、そこで真教上人たちがお念仏を称えていると、様々な人々が現れ、結縁していたようです。

さて、その丹生山の麓には、粟河(あわかわ おうご 淡河とも、現在、神戸市北区の北西部周辺)という地域があり、ある日、そこの粟河領主(淡河時俊を推定)が真教上人のもとを訪れ、念仏札を授けてほしいと懇願してきたのでした。では、なぜ、この領主が真教上人のもとを訪ねてきたのでしょうか、それは、この粟河領主の夫人が兵庫観音堂で一遍上人から最後に念仏札を授けられていたご縁からでした。はじめは、真教上人はその領主の熱意に押され、自らが所持していた一遍上人の念仏札を渡したのでした。

真教上人は、この領主のように一遍上人のお念仏の教えを必要とする人々がまだたくさんいることを知り、一遍上人の後を追うことを思いとどまりました。そして、ひとりでも多くの人々に一遍上人の念仏の教えを伝えるために真教上人は、時衆を再編成し遊行の旅に再び出たのでした。

 

 

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ③

正応5年(1292)、越前国の惣社で平泉寺の衆徒らに襲われる。(『遊行上人縁起絵』第六巻 遊行寺蔵)

北陸を遊行す


正応2年(1289)一遍上人が入滅し、丹生山で時衆を再結成した真教上人は、遊行を再開したのです。『縁起絵』第5には「此の聖はまなこ重瞳ちょうどう浮(び)て繊芥せんかいの隔(て)なく面に柔和にゅうわ備(へ)て慈悲の色深(か)し」(真教上人は重瞳が浮び、わずかな隔てもなく、顔は柔和で慈悲深い様子であった)と真教上人の表情を伝えています。この「重瞳」とは眼の中に瞳が二つあることで、貴人の相を意味しています。その姿を見ただけでも帰依しようという気持ちが起きるような様子を表しているのでしょう。

さて、正応3年(1290)夏頃、真教上人は、越前国府(現在、福井県越前市)周辺を遊行されました。丹生山にいた真教上人が何故、越前国を遊行したのでしょうか。その理由について『縁起絵』には記されていませんが、「機縁に任せて」(『縁起絵』第5)とあることから有力な檀越からの要請があったからでしょう。そのため、真教上人の遊行は一遍上人が全国を廻国したのに対し、越前・越中・越後・加賀・甲斐の国々を中心にしています。

そして、真教上人は、各地で多くの人々の帰依を受けるとともに、その協力を得て道場を建立しています。一遍上人は生涯一か所も道場を建立することがありませんでした。それに対して、真教上人は積極的に建立したことが、時宗教団にとって地方に根をはる礎となったのです。現在、関東甲信越地方には、真教上人による開山或いは改宗した道場(寺院)が多数存在しています。また、その道場には、弟子を派遣し教化を継続し、疑義がある場合は、手紙で答えるなど積極的に布教教化の活動していました。その手紙の内容は、江戸時代に『他阿上人法語』として編纂され、今も真教上人の教えを学ぶことができます。

正応5年(1292)秋頃、真教上人は、多くの人々から帰依を受けながらある人の要請により、越前国の惣社に参詣しました。ところが、真教上人の布教により、時宗教団が隆盛することを嫉み平泉寺の法師たちは、真教上人と時衆に石を投げつけるなど追放しようとしたのです。それに対して時衆は、平泉寺の法師たちを迎え撃とうとしました。しかし、これを察した真教上人は、時衆を戒め、さらに念仏を称え続けていると雨の様に投げられた石が不思議と時衆の誰一人にもあたることがなかったのです。

その後、周囲を気遣い真教上人は越前の惣社を去り、加賀国に向かわれました。

 

 

 

 

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ④

真教上人、信濃国善光寺に詣でる。(『遊行上人縁起絵』第七巻 遊行寺蔵)

善行寺を拝す


真教上人による北陸地方での布教は多くの人々からの帰依を受け、請われて再びその地を訪れることもあったようです。このことは、現在、北陸地方に真教上人開山の寺院が多いことからもうかがえます。また、同じところを訪れ布教を重ねるというところは、宗祖一遍上人と大きく違う様相を異にしていると言えます。そのため、その地方でもとから布教していた寺社からの嫉妬もあったのでしょう。そのひとつが平泉寺の法師から受けた攻撃だったのです。

越前国の惣社を後にした真教上人は、一度、加賀国に逃れ、永仁5年(1297)頃には、上野国(現在、群馬県)、下野国小山(現在、栃木県小山市)周辺を遊行しています。この経路については、『縁起絵』は勿論ですが、一遍上人以来、同行した時衆の僧尼が往生した後、その名が記された『時衆過去帳』(『往古おうこ過去帳』)が現存しています。この『時衆過去帳』の裏書には一部それぞれの地名が記されています。その年号や裏書の地名からある程度、遊行経路を推定することができます。

さて、永仁6年(1298)、真教上人は、武州村岡(現在、埼玉県熊谷市付近)で大病をし、臨終を覚悟したうえで念仏の用心を記した『他阿弥陀仏同行用心大綱たあみだぶつごうぎょうようじんだいこう』を時衆に示します。この時のご病気が原因となり、真教上人の特徴的なお顔の表情になったとされています。その後、越前国から越後国にかけて人々を教化していた真教上人は、関山(現在、新潟県上越市)より熊坂(現在、長野県上水内郡)を越えて信濃国(現在、長野県)へと入ります。信濃国に入った真教上人は、信州善光寺に参詣しました。この信州善光寺は、宗祖一遍上人が再出家後すぐに参詣し、第一の安心と「二河白道にがびゃくどう」を感得した場所でもあります。そして、この善光寺のご本尊は、インド・中国そして日本へとお渡りになった仏であり、一つの光背に弥陀・観音・勢至が立ち並ぶ、いわゆる「一光三尊いっこうさんぞん」の形式です。この形式は、善光寺式とも呼ばれています。

現在、時宗では、善光寺式をご本尊として奉っている寺院も少なくないです。このことから、当時の時衆は善光寺の信仰を広めた善光寺聖、あるいは高野聖との接点を見いだすことができるのではないでしょうか。

真教上人が善光寺に参詣されたとき、時あたかも舎利会が行われており、ご本尊がご開帳されていたそうです。寺より特別に許されて真教上人は、ご本尊のすぐ前で日中の法要をお勤めされました。未だかつてご本尊の前でお勤めをするということがなかったため、参詣者は驚いていたそうです。この法要は7日間続いたそうです。

    

法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑤

正安3年(1301)、敦賀氣比神宮のために、真教上人自ら浜の砂を持ち参道をつくる。道俗一切に至るまで参加する。(『遊行上人縁起絵』第八巻 遊行寺蔵)

遊行のお砂持ち


信州善光寺を参詣し甲斐国(現在、山梨県)へと布教された真教上人は、ここで日蓮宗の僧侶と宗論をしたのでした。このときも真教上人はお念仏の教えを説かれ、騒動になることもなく鎮まったのでした。その後も真教上人は、甲斐国中を遊行し、たくさんの帰依を受けその地に道場を建立しながら、越後国(現在、新潟県)へとお移りになられました。  

その道中、ある武士が時衆への入門を希望しますが、真教上人はその武士が高齢でもあるため断られました。その際、真教上人はその武士とお互いに往生した後、阿弥陀仏の極楽世界で再会することを約束されています。このようなことは、真教上人のみ教えが各地に、しかも各階層に深く根ざしていることをあらわしています。

さて、越後国を遊行した真教上人は、正安3年(1301)頃、越前国(現在、福井県)に入られました。真教上人は、古来より北陸の総鎮守として信仰されていた角鹿笥飯大神宮(現在、福井県敦賀市「氣比けひ神宮」)に参詣されました。

この大神宮は、海の航海安全と水産漁業の隆昌そして、陸では産業発展と衣食住の平穏などの霊験が著しく、参詣者で賑わっていました。しかし、その西門前の参道は、沼地(東の入り江)にあるため、長年参詣者が参詣に苦労していました。その話を伝え聞いた真教上人は、大神宮から4、500メートル離れた浜の砂を「もっこ」を担いで自ら運び、その西門前の参道を改修し始めました。その後、真教上人に結縁した人々が周辺諸国から集まり、その様子は市場の賑わいの様だったと『縁起絵』は記しています。その工事は、大勢の人々が加わり七日間に及んだそうです。このようにして真教上人による適切なご勧進かんじんにより、大神宮の参道は立派に整備されました。

このことから真教上人は、越前国での布教をお砂持ちのことでもわかるように、成功、一路、伊勢国(現在、三重県)を目指したのでした。

この参道の工事は、「遊行のお砂持ち」と呼ばれ、現代においても遊行上人が法灯を相続した際に行われています。遊行上人が法灯を相続する際に行われる行事には、このお砂持ち神事と熊野奉告、宗祖の御廟参拝があります。このことからも時宗教団の成立には、二祖である真教上人の存在の大きさが感じられます。

最近では、遊行74代他阿真円上人が法灯を相続された際、平成27年(2005)5月15日にこの神事が行われました。また、元禄2年(1689)8月14日には、松尾芭蕉が旅で敦賀を訪れ、宿泊した出雲屋の亭主から「遊行のお砂持ち」の故事を聞き、「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠んでいます。