法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ④

真教上人、信濃国善光寺に詣でる。(『遊行上人縁起絵』第七巻 遊行寺蔵)

善行寺を拝す


真教上人による北陸地方での布教は多くの人々からの帰依を受け、請われて再びその地を訪れることもあったようです。このことは、現在、北陸地方に真教上人開山の寺院が多いことからもうかがえます。また、同じところを訪れ布教を重ねるというところは、宗祖一遍上人と大きく違う様相を異にしていると言えます。そのため、その地方でもとから布教していた寺社からの嫉妬もあったのでしょう。そのひとつが平泉寺の法師から受けた攻撃だったのです。

越前国の惣社を後にした真教上人は、一度、加賀国に逃れ、永仁5年(1297)頃には、上野国(現在、群馬県)、下野国小山(現在、栃木県小山市)周辺を遊行しています。この経路については、『縁起絵』は勿論ですが、一遍上人以来、同行した時衆の僧尼が往生した後、その名が記された『時衆過去帳』(『往古おうこ過去帳』)が現存しています。この『時衆過去帳』の裏書には一部それぞれの地名が記されています。その年号や裏書の地名からある程度、遊行経路を推定することができます。

さて、永仁6年(1298)、真教上人は、武州村岡(現在、埼玉県熊谷市付近)で大病をし、臨終を覚悟したうえで念仏の用心を記した『他阿弥陀仏同行用心大綱たあみだぶつごうぎょうようじんだいこう』を時衆に示します。この時のご病気が原因となり、真教上人の特徴的なお顔の表情になったとされています。その後、越前国から越後国にかけて人々を教化していた真教上人は、関山(現在、新潟県上越市)より熊坂(現在、長野県上水内郡)を越えて信濃国(現在、長野県)へと入ります。信濃国に入った真教上人は、信州善光寺に参詣しました。この信州善光寺は、宗祖一遍上人が再出家後すぐに参詣し、第一の安心と「二河白道にがびゃくどう」を感得した場所でもあります。そして、この善光寺のご本尊は、インド・中国そして日本へとお渡りになった仏であり、一つの光背に弥陀・観音・勢至が立ち並ぶ、いわゆる「一光三尊いっこうさんぞん」の形式です。この形式は、善光寺式とも呼ばれています。

現在、時宗では、善光寺式をご本尊として奉っている寺院も少なくないです。このことから、当時の時衆は善光寺の信仰を広めた善光寺聖、あるいは高野聖との接点を見いだすことができるのではないでしょうか。

真教上人が善光寺に参詣されたとき、時あたかも舎利会が行われており、ご本尊がご開帳されていたそうです。寺より特別に許されて真教上人は、ご本尊のすぐ前で日中の法要をお勤めされました。未だかつてご本尊の前でお勤めをするということがなかったため、参詣者は驚いていたそうです。この法要は7日間続いたそうです。