法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ②

真教ら遺弟念仏しつつ臨終するため丹生山に分け入る。(『遊行上人縁起絵』第五巻 第一段 遊行寺蔵)

丹生山たんじょうさんに向かう


一遍上人は、16年間の遊行の旅で250万余の人々にお念仏の教えを弘められました。一遍上人は、その臨終がまぢかであることをさとり「一代の聖教皆つきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」(お釈迦様がお開きになった仏教の教えを突き詰めていくと、私たちが救われる唯一の教えは南無阿弥陀仏である)、または「我が化導は一期ばかりぞ」(『聖絵』第十一)と言い残し、お念仏の教えだけが各地に弘まることを願い、所持していた経典以外のものを焼き捨てています。これは、お念仏の教えに我意を挟まないためだったのでしょう。

こうして一遍上人は、正応2年(1289)8月23日の朝、51年の生涯を兵庫観音堂(現在、兵庫県神戸市兵庫区 時宗真光寺)で閉じられました。そばにいた多くの弟子たちは、それぞれ向かうべき場所へと旅立っていきました。そのように、各地に旅立っていった弟子たちの中には、真教上人もいたのです。

真教上人の動向はというと、「さて遺弟等知識にをくれたてまつりぬるうへは、速に念仏して臨終すべしとて丹生山へわけ入(り)ぬ」(『縁起絵』第五)とあるように、数人の時衆とともに兵庫観音堂から北西の方角にあたる丹生山(現在、神戸市北区)へ向かいました。真教上人は、その地でお念仏を称えながら臨終を迎え一遍上人の後を追うと決心されたのです。そこでは、山を越えながらもなお一遍上人をお慕いし、涙を流して過ごしていたようです。偶然なのか、山中に寺院跡があり、そこで真教上人たちがお念仏を称えていると、様々な人々が現れ、結縁していたようです。

さて、その丹生山の麓には、粟河(あわかわ おうご 淡河とも、現在、神戸市北区の北西部周辺)という地域があり、ある日、そこの粟河領主(淡河時俊を推定)が真教上人のもとを訪れ、念仏札を授けてほしいと懇願してきたのでした。では、なぜ、この領主が真教上人のもとを訪ねてきたのでしょうか、それは、この粟河領主の夫人が兵庫観音堂で一遍上人から最後に念仏札を授けられていたご縁からでした。はじめは、真教上人はその領主の熱意に押され、自らが所持していた一遍上人の念仏札を渡したのでした。

真教上人は、この領主のように一遍上人のお念仏の教えを必要とする人々がまだたくさんいることを知り、一遍上人の後を追うことを思いとどまりました。そして、ひとりでも多くの人々に一遍上人の念仏の教えを伝えるために真教上人は、時衆を再編成し遊行の旅に再び出たのでした。