時宗宗祖一遍上人 ~時衆の形成~

弘安元年(1278)九州で一遍上人は、後に二祖となる他阿真教(1237-1319)と出会い、同行を許してからその人数も次第に増え時衆が形成されていきました。ちなみに、中世では時衆、近世以降は時宗と表記され区別されています。

一遍上人は、信州佐久(現、長野県佐久市)で踊り念仏を始めました。当初、これは、意図的ではなく自然発生的に行われたものであろうがしだいに形式化されていったと考えられます。遊行の旅は、南は鹿児島の大隅八幡宮(現、鹿児島神宮)から北は東北へと広範囲に及びました。特に江刺えさし(現、岩手県北上市)では、祖父河野通信の墓参を行っています。弘安5年(1282)には、鎌倉へと入ろうとしましたが、目前にして小袋坂(現、鎌倉市小袋谷付近)で行く手を阻まれたため、一遍上人は、片瀬の浜地蔵堂(現、神奈川県藤沢市)へと移ることになりました。ここでは、突如、『聖絵』では踊屋と呼ばれる舞台のような建物が登場し、踊り念仏がその上で行われた。この踊り念仏は、数日行われたくさんの人びとで賑わったといいます。

弘安7年(1284)一遍上人は、一路京都を目指した。関寺を経て四条京極の釈迦堂へ入った一遍上人のもとには、念仏札を受けようと多くの人びとが集まり、その賑わいは『聖絵』に記されています。そして、そこには、あまりにも多く人が集まったため一遍上人は肩車をされ念仏札を配るほどでした。その後、「我が先達」と慕った空也(903-972)ゆかりの六波羅蜜寺を訪ね、空也の遺跡市屋で踊り念仏を行っています。

正応2年(1289)7月、一遍上人は、「いなみ野」で終焉を迎えようとしましたが、兵庫から迎えが来たため兵庫観音堂(現、兵庫県神戸市兵庫区真光寺)に移動しました。臨終に先立ち8月10日の朝に一遍上人は、『阿弥陀経』を読みながら所持していた書物を焼き捨て、「釈尊一代の教えを突きつめると南無阿弥陀仏の教えになる」と述べています。

ついに8月23日の朝、一遍上人は漂白の旅に明け暮れた51年の生涯を閉じました。16年の遊行の間、念仏札を配った人数を『聖絵』では、25億(250万)1千7百24人と記しています。