法灯を継ぐ ー真教上人の生涯とその教えー ⑤

正安3年(1301)、敦賀氣比神宮のために、真教上人自ら浜の砂を持ち参道をつくる。道俗一切に至るまで参加する。(『遊行上人縁起絵』第八巻 遊行寺蔵)

遊行のお砂持ち


信州善光寺を参詣し甲斐国(現在、山梨県)へと布教された真教上人は、ここで日蓮宗の僧侶と宗論をしたのでした。このときも真教上人はお念仏の教えを説かれ、騒動になることもなく鎮まったのでした。その後も真教上人は、甲斐国中を遊行し、たくさんの帰依を受けその地に道場を建立しながら、越後国(現在、新潟県)へとお移りになられました。  

その道中、ある武士が時衆への入門を希望しますが、真教上人はその武士が高齢でもあるため断られました。その際、真教上人はその武士とお互いに往生した後、阿弥陀仏の極楽世界で再会することを約束されています。このようなことは、真教上人のみ教えが各地に、しかも各階層に深く根ざしていることをあらわしています。

さて、越後国を遊行した真教上人は、正安3年(1301)頃、越前国(現在、福井県)に入られました。真教上人は、古来より北陸の総鎮守として信仰されていた角鹿笥飯大神宮(現在、福井県敦賀市「氣比けひ神宮」)に参詣されました。

この大神宮は、海の航海安全と水産漁業の隆昌そして、陸では産業発展と衣食住の平穏などの霊験が著しく、参詣者で賑わっていました。しかし、その西門前の参道は、沼地(東の入り江)にあるため、長年参詣者が参詣に苦労していました。その話を伝え聞いた真教上人は、大神宮から4、500メートル離れた浜の砂を「もっこ」を担いで自ら運び、その西門前の参道を改修し始めました。その後、真教上人に結縁した人々が周辺諸国から集まり、その様子は市場の賑わいの様だったと『縁起絵』は記しています。その工事は、大勢の人々が加わり七日間に及んだそうです。このようにして真教上人による適切なご勧進かんじんにより、大神宮の参道は立派に整備されました。

このことから真教上人は、越前国での布教をお砂持ちのことでもわかるように、成功、一路、伊勢国(現在、三重県)を目指したのでした。

この参道の工事は、「遊行のお砂持ち」と呼ばれ、現代においても遊行上人が法灯を相続した際に行われています。遊行上人が法灯を相続する際に行われる行事には、このお砂持ち神事と熊野奉告、宗祖の御廟参拝があります。このことからも時宗教団の成立には、二祖である真教上人の存在の大きさが感じられます。

最近では、遊行74代他阿真円上人が法灯を相続された際、平成27年(2005)5月15日にこの神事が行われました。また、元禄2年(1689)8月14日には、松尾芭蕉が旅で敦賀を訪れ、宿泊した出雲屋の亭主から「遊行のお砂持ち」の故事を聞き、「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠んでいます。