関寺縁起

史料上、関寺の初見は、天禄元年(970)に源為憲が著した『口遊』に日本三大仏として奈良東大寺・河内智識寺の毘盧遮那仏そして関寺の弥勒仏が記載されています。

この関寺の弥勒仏は、金色五丈もある大仏であったとしていますが『扶桑略記』によれば、天延4年(976)の大地震により大規模な被害を受け関寺の諸堂宇も倒壊し、五丈の弥勒仏は腰から上が破損したと伝えています。

さて、長安寺蔵『関寺縁起』によれば、長和年間(1012~1017)に恵心僧都源信(942~1017)が倒壊したままの関寺を嘆き悲しみその復興を発願し、その事業を弟子の延鏡(生没年不詳)が遂行することになったと記されています。
この延鏡については、『霊山院過去帳』に「十二月二日 延鏡」と見えるこの人物と同一でしょうか。おそらく、霊山院式に名を連ねていることから結社の一員であったことが想像できます。また、『小右記』には、「関寺聖」という記載があることから、延鏡を示しているのかもしれません。

この関寺再興の際には、資材運搬のために清水寺から遣わされたという一頭の牛がいました。その牛は、関寺檀越などの霊夢に迦葉仏の化身であるという夢告があったというのです。この夢告の噂はすぐに巷に広まり、万寿2年(1025)5月16日には、その霊牛と結縁すべく藤原道長、源倫子、藤原頼通、藤原教通などが次々と参詣しその数、数万に及んだと『関寺縁起』『左経記』などに記されています。

遂に5月30日、その牛は、完成した御堂の廻りを三巡りした後、6月2日入滅し、その亡骸を関寺の後ろの山に埋葬したというのです。その牛を埋葬した場所に藤原頼通が建立したものが現在の牛塔であると伝承されています。

 

また、関寺と時宗との関係は、弘安6年(1284)に時宗宗祖一遍上人(1239~1289)が入洛に際しこの関寺に逗留しています。このことについて国宝『一遍聖絵』第7に再建中の関寺堂舎の様子が画かれており、関寺にある池(関清水)の中州に踊り屋を設け、一遍上人や時衆が七日間の踊り念仏を行っています。その様子について『一遍聖絵』では次のように記しています。

 

又、関寺へ入り給し時、園城寺よりしかるべからざるよし、制止ありとて、其夜は関のほとりなる草堂にたちより給しほどに、化導のおもむきゆへなきにあらずとて、衆都のあるされありしかば、関寺に七日の行法をはじめ給き。あまさへ智徳たち対面法談ありて、聖の余波をおしまるるによりて、今二七日延行せられ侍き

 

この詞書から推察すると、始めは逗留を制止するも、霊夢をもって逗留を許可している背景には、一遍上人による踊念仏が関寺再興勧進に必要だったのからではないでしょうか。さらに、『一遍聖絵』第7では、一遍が関寺に逗留し踊念仏を行っている場面で関寺の門の右に卒塔婆が数本建てられている横に建物(納骨所)があり、そこに骨を差出している様子が描かれています。これについては、推測の域を脱し得ないが関寺という名称から、この世とあの世という異界との関所を意味する場所として信仰を集めており、更に、未来仏である弥勒仏を本尊として安置していることから弥勒信仰との関連もあり、関寺自体が「死から生へ」と通じる蘇生の地として考えられていたのではないでしょうか。

さて、松月山長安寺は、元亀年間、関寺の一隅に大通庵主声阿弥陀仏によって開山されたと考えられます。そのころ、関寺には、三昧、芸能に関わる聖が多く存在していたようです。そのため、長安寺もその関わりから創建されたのではないでしょうか。中世には、大津市内にあった金塚道場荘厳寺(廃寺)の末寺でしたが、近世に入り、荘厳寺の衰退とともに豊臣氏によって京五条坂に創建された吉水道場法国寺(創建時は豊国寺)の末寺となりました。また、東海道の宿場町大津宿の関係もあり、人々の往来も多く酒肴に席としても利用されていました。その賑わいは、『東海道名所図絵』にも描かれています。

近世末頃には、境内から湧き出る豊富な水を市街地に供給する長安寺水道を有するなど栄えていました。

栄枯盛衰、時代の変遷の影響を受けながらもその法灯を今に伝えています。

現在の境内からは、大津市街が一望できるとともに、織田信長ゆかりの百体地蔵、西国三十三観音霊場、宗祖一遍上人供養塔、超一房供養塔、長安寺滝跡や関寺堂塔の礎石などがあり、関寺の面影を今に伝えています。

 

謡曲「関寺小町」

関寺小町
謡曲「関寺小町」
待ち得て今ぞ秋に逢ふ。待ち得て今ぞ秋に逢ふ星の祭を急がん。
これは江州関寺の住僧にて候。今日は七月七日にて候ふ程に。七夕の祭を取り行ひ候。又この山陰に老女の庵を結びて候ふが。歌道を極めたる由申し候ふ程に。幼き人を伴ひ申し。かの老女の物語をも承らばやと存じ候。

で始まる「関寺小町」は、いわゆる小町物と言われる艶やかな曲名とはその趣を異にし、老い衰えた小町が過ぎ去りし栄華をなつかしみ、現況を憂いている内容です。
そして、この「関寺小町」は、関寺を舞台とした小町物の一つです。世阿弥陀仏(世阿弥)作と伝えられています。「関寺小町」は、小町物と言われる艶やかな曲名とはその趣を異にしており、「三老女」の一つに数えられています。内容は、関寺の僧が稚児を伴い老女の庵を訪ね、和歌について尋ねると話の端々から小野小町であることがわかります。その後、関寺の七夕に誘われた老い衰えた小野小町は、華やかであった過去をなつかしみながら、稚児の舞にひかれて舞い、明け方の鐘の音とともに庵へ帰って行きます。昔の栄華に対し、現在の老い侘びしい生活を嘆き悲しむ内容です。

長安寺境内案内

『本堂』


現在の本堂は、長安寺の本寺にあたる京五条坂にかつてあった吉水道場法国寺と京錦小路にあった六条道場歓喜光寺が明治初期に合併した際、歓喜光寺本堂を移築したものです。移築以前の本堂は、現在、長安寺書院として使用されている建物です。『長安寺明細帳』に収録された絵図面からも現在の書院が本堂兼庫裡として活用されていたことが分かります。長安寺25世住職平田善寳の尽力により、現在の本堂が移築されています。ただ、本堂の規模等は、歓喜光寺時代のままなのか、或いは、古材を再利用し今の規模にしたのかさだかではありません。いまも長安寺には、本堂移築に伴う寄付等募る趣意書が残されています。この時期に制作された牛塔を形とった御朱印用の印があります。

『牛塔』


関寺復興に活躍した牛が入滅し、その牛の供養には、園城寺の心誉が寺僧を率いて参入し念仏を修したと『関寺縁起』には記されています。その牛の供養塔として藤原頼通が建立したものが現在の牛塔であると伝っています。因みに関寺の霊牛譚に関する史料は、万寿2年(1025)の奥書を持つ『関寺縁起』ほか、『左経記』『栄華物語』『日本紀略』『今昔物語集』などがあります。

『長安寺水道』


現在、書院横には池があります。この池はもともと「長安寺滝」の滝壺だったそうです。江戸中期から大正初期にかけて、この滝から流れ出る豊富な湧水は、竹管を使って大津市の市街地に飲料水として供給されていたそうです。その際の配管を記したのが所蔵されている『長安寺飲料水配管絵図』1幅です。嘉永4年(1851)作成されたこの絵図面は、長安寺境内地の湧水を大津市街地に供給する竹管の配管を示すものです。最盛期に長安寺付近の百六十一戸、五百人程の人々に供給されていました。しかし、明治後期から次第に湧水の量が減り、ついには涸れてしまいました。平成に入り、先代下村孟然代には、年に数ヶ月境内の片隅から湧き出る水を利用し、復活させたのが今の書院横の池です。

『一遍上人・超一房供養塔』


時宗宗祖一遍上人の生涯を描いた国宝『一遍聖絵』(清浄光寺(遊行寺)蔵)によると、文永11年(1275)に一遍上人が遊行の旅に出た際、同行した3名の中にこの超一房がいました。一遍上人と超一房との関係については、さまざまな説があります。正妻、側室等の説があり、小説などで取り上げられています。しかし、『一遍聖絵』では、一遍上人と同行した超一房を含む3人との関係についてあえて記していません。さて、超一房は、一遍上人の時代から記されていた『時衆過去帳』によれば、この関寺逗留の頃、亡くなっているのです。そのため、長安寺には、この超一房の供養塔が建立されたと伝わっています。現在、「超一房供養塔」は、平成14年7月に長安寺27世住職下村孟然代に整備されたものです。

『小野小町供養塔』


関寺の後身である長安寺には、関寺小町にちなむ小野小町の供養塔が建立されています。

『織田信長ゆかり百体地蔵尊』


長安寺26世住職平田諦善は、大津市議会議員を務めていた時期があります。その在職中、坂本地区の開発を手がけており、その工事中、元亀2年(1571)織田信長による比叡山焼き打ちで埋もれたとされる石造地蔵尊群が出土しました。そのうち、百体を境内に移設し、一石五輪塔と組み合わせた地蔵塔(納骨墓)を昭和35年(1960)に建立しました。平成29年、安養廟建立に伴い地蔵塔を解体し新設しました。